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【書評】人生ってなに?生きる意味とは?|ピーター・シンガー『私たちはどう生きるべきか』

 こんにちは、今回は2冊目の紹介をしたいと思います。今回紹介する本はこちらになります!

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)

 

  哲学や倫理をかじったことのある方はこの著書や著者を耳にしたことはあるのではないでしょうか。

 こんな胡散臭さ満載のタイトルではありますが、ただの啓蒙本とは違います!倫理学や歴史学のみならず、生物学の知見も織り交ぜながら、緻密に議論されているものになります。

 そして、個人的にも、【どうせ考えたってわからないものでもないし】と放棄せずにきちんと向き合うべき問いだと思っているので、本書を見つけたときはもはや感動しました(課題図書で押し付けられたわけですが...。)

 ここでは、前回と同様に、まず本書の概要をおさらいして、その後、私自身のコメントを書き記す形となります。本を読むにあたって、ただ鵜呑みにするだけではなく、あくまで持論に即して見ていくべきだと思っています。ですので、その時の疑問や感じたことも一緒に残して、自分へのメモの意味も兼ねて、みなさんと共有して行きたいと思います。

 みなさんもぜひ何か感じたことがありましたら、コメントを残していただけると幸いです。

概要

 まず要点を挙げて、それに即して少し詳細をその後に書きたいと思います。

 本書の要点

 本書は大きく分けて2つの議論があります。1つ目は「私たちの生き方」の現状分析その背景の議論です。今私たちはどのように生きている傾向があるのか、それはどこから由来しているのかという感じです。2つ目は、それを踏まえた上で目指すべき価値の議論です。客観的に「私たちの生き方」を定義できるのか、それを試みる部分となります。まとめると、最初が「である」の議論であり、次が「すべき」の議論です。

1つ目の議論:私たちの生き方の現状分析とその背景

キーワード

 重要なキーワードは、【私的利益】と【倫理】です。つまり、自分のために生きるか、他人のために生きるか、の二項対立です。実はその間もありうるらしいのですが、この二項からの選択を【究極の選択】と表現しています。

選択していないという現状

 しかし、私たちはそもそもこの究極の選択の選択に向き合ったことがあるでしょうか。著者は、アメリカの私的利益を追求する物質主義を批判します。つまり、従来の消費とは、より良く生きるための手段であったにもかかわらず、いつの間にか高額な買い物をすることが社会的ステータスであり生きがいであるとして、目的化してしまっていることに対する批判です。

 そして、ここには選択が介在していない。つまり、究極の選択に直面し、敢えて【私的利益】を選んだのではなく、何が自分の幸せ/生きる価値であるかを考えずに、消費が幸せをもたらしてくれると盲信しているに過ぎないということです。言い方によっては、自分の生をについて向き合い選択していないので、そもそも生を営んですらいないともいうことができるのではないでしょうか。

私的利益追求の背景

 次に、この現状分析に対して、その起源を考察しています。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の議論や、その他の西洋思想を引き合いに出し、現状の背景について述べています。これらによって文化的背景が存在することは確認されました。

 さらには生物学的知見を持ち出し、遺伝子に私たち人間が利己的たらしめる要素があるのかも議論されています。しかし、ここでは、利他的な行動が観測されたり、ゲーム理論でもある「しっぺ返し」の戦略が実際に生物界でも見られるので、利己的である必然性があるとは言えません。

まとめ1

 これらの結果、文化的影響と遺伝学的影響の2つが考えられることがわかります。そして遺伝学的には、利己的である客観的理由は確認されないので、人間が利己的である必然性は認められません。ですので、利己性というのはあくまで文化的に規定されたものであるので、変化の可能性を持っています。

 まとめると、私たちの絶対的/客観的な生のあり方は定義することはできませんでした。しかし、文化的要因による生き方の推移は認められます。ですので、絶対的な解は提示できませんが、次善的なものは模索できるかもしれないとして2つ目の議論に移ります。

2つ目の議論:私たちはどう生きるべきか

間接的な定義(有意味性から有用性)

 1つ目の議論にて、生き方そのものの理想が存在しないことがわかりました。そこで、ある生き方が外部にどのような影響をもたらすかという間接的/手段的な方法での生き方の価値の定義が試みられるのがこの部分です。

 その例として、世代間の資源配分を前倒ししていることや、動物への非倫理的行動を挙げられていますが、それらを防ぐために【倫理的な視点】、言い方を変えれば、【宇宙の視点】を持って考えることを提唱しています。

宇宙の視点の効能

 これを行うことの利点として、自らの人生の意味喪失の埋め合わせとして機能することを挙げられています。

 従来、人々は自らの生活を簡便化するために技術を発展させてきましたが、それを享受し多くの余暇を手にした場合、自らの喪失感と対面することとなるといいます。つまり、それまでは【発展】をキーワードに突っ走っているので気になりませんが、いざその発展が停滞してしまうと、何のために【発展】を目指していたのかを考えていないので、迷子になってしまうということです。その意味では、自ら選択しておらずとも、物質主義に邁進していたほうが、その喪失感から逃避できるので望ましいといえるのかもしれません。

 そこで、物質主義とは対局の、外部への悪影響がない(むしろ望ましい影響すらある)倫理に付き従うことで、暫定的に自己の喪失感を補うことができるとしています。ただ生きて、死ぬだけではなく、何らかの自らの生の価値を見出すことができることを挙げています。つまり、他人のために何かをすれば、自己肯定感を保てるということでしょうか。

まとめ2

 ここまでの要約していきましょう。まず、物質主義の追求により自らの生の選択(究極の選択)すら行っていない人が特に(西洋に)多くいるということです(実際はどうなんでしょう)。そこで、生のあり方の再考がなされましたが、客観的な生のあり方は確認されませんでした。しかし、外部に悪影響を及ぼさないという意味で望ましい生き方を追求することは可能であり、その生き方とは、【倫理的に生きること】*1と結論付けられています。

 コメント

 さて、ここからは個人的なコメントとなります。今回は1点のみです。それは、【自己による選択の不在】です。この点について整理していきましょう。

自己による選択の不在 

 本書の概要の最初にもあったように、私たちは【究極の選択】に対峙することなく、 私的利益を追求していると表現されています。ここで問題なことは、私的利益を追求していることではないはずです。問題なのは、自分で選択して、自分の生の在り方を見つめていないことにあります。しかし本書では、倫理的に生きることが望ましい生き方の答えとして与えられてしまっているように見えます。つまり、結局読者は、究極の選択に対峙せず、倫理的な生き方へ盲信するのではないかという疑問です。

パターン分け

 わかりやすくするために2×2の4パターンに分けてみましょう。まずは、究極の選択にもなっている【1.倫理】か【2.自己利益】の2択です。次は、【A.選択している】と【B.選択していない】の2択です。これらの組み合わせを見ると以下のようになります。

  • 1×A:選んで倫理的に生きる
  • 1×B:選ばずに倫理的に生きる
  • 2×A:選んで自己利益に生きる
  • 2×B:選ばずに自己利益に生きる

そして、本書では、【2×B:選ばずに自己利益に生きる】が批判されていたのです。そしてそのポイントは選んでいないことにあったはずです。しかし、議論の末の結論は、【1×B:選ばずに倫理的に生きる】となるようです。そうすれば、自己喪失感を回避できるから、暫定的には倫理的に生きることが望ましいと主張しているのです。

自身の実体験から

 しかし、考えてみてください。倫理的な生き方を盲信していれば喪失感を回避できるのでしょうか。私自身は違うと思います。私は、自分のことしか考えていない利己的な人は寂しい心の持ち主でつまらないと思っていました。そのため、所得よりも社会的意義を重視して、NPOやNGOで働いたり、ボランティアで社会貢献をしたいなどと考えていた時期もあり、それに即した勉強もしていました。

 しかし、なぜ他人のために自分がつらい思いをしなければならないのか、という虚無感に襲われました。つまり、そこには自己喪失感がありました。他人のことが主軸となりすぎて、自分がそれをする意味がわからなくなりました。要するに、社会的な重要性は理解できるが、なぜそれをまぎれもなくこの”私”が担わなければならないのかがわからなくなりました。

 つまり、ここでの問題は、生き方の内容(倫理的 or 自己利益的)ではなく、自らの意識的な選択の有無です。当時ボランティアや社会貢献という言葉がバズっていたので、その潮流に流されたところがあって、自己の選択はおそらく介在していませんでした。

選択こそが本質!?

 私自身の体験を一般化するのは些か強引ではありますが、倫理的に生きることを外部から薦められるだけでは、結局喪失感を回避できないと思います。ですので、私は、【1×B:選ばずに倫理的に生きる】ではなく、【1×A:選んで倫理的に生きる】か【2×A:選んで自己利益に生きる】 が望ましいと思います。つまり、自ら選び取ってさえいれば、基本的に*2どのような生き方でも良いと思っています。

 本書で批判されているアメリカをはじめとする先進諸国の物質主義の波に乗った生き方でも構わないと思っています。それが自らの意識的な選択であれば、個人の価値観の違いなので外部からお咎めできるものではないでしょう。

 よって私自身は、生きる意義を【自らの生の価値を選択していく過程】であると考えています。定まった生きる意義が存在するわけではなく、それを悩み模索していくそのプロセスそのものが生きる意義なのではないかと思います。考えることを止め、惰性で生活を始めたその段階から、生命の再生産としての意味はありますが、”人生”としての意義は薄まると考えています。

 ですので、自ら選択することが第一です。その上で、その内容が社会的に不正義か否かという制限が事後的に付与されるのが望ましいと考えています。選択をしなければ何も始まりません。生き方の内容の議論はそれからです。

まとめ

 個人的な話ですが、私自身は4月から新社会人として社会に出ることになります。そして、日本にもそれに際して規定された大きな価値が横たわっているように思います。

  • まずは仕事を頑張る。家庭や趣味はその後。
  • 会社の中で昇進する。
  • 仕事を通じて社会に貢献しよう。
  • 会社は家族。仕事もプライベートも共に楽しむ。

主に就職活動を通じて、見聞きした言葉を適当に並べましたが、こんな価値観が所謂伝統的な日系色の強い企業には多いのではないでしょうか。しかし思うのです。みんながこんなことを考えていたら、実際にみんなの貢献の恩恵を受けるのは誰なのか。みんなが滅私奉公で働いているけれど、それは誰が享受しているのか。

 仕事は手段です。その手段を手にする前に、自らの生の目的について考えることはとても良い機会だと思います。そこが揺らいでいると、仕事を目的化して、生きる意味を見失うと思います。とりあえず仕事を頑張る、と究極の選択を放棄せずに、自らの生に向き合うことが現代では求められているように勝手に思っています。

 少しでも興味を持っていただいて、何かの些細な機会になれば嬉しいです。

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)

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 個人的な関連書 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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*1:ここでいう倫理的とは、【宇宙の視点】を持って利他的に行動することだと思います。カントの世界市民的な理性の自立的使用と近いものがあるのでしょうか。

*2:「基本的に」とは、他人の生の追求を阻害しないかぎりにおいてという意味です。危害原則です。